2007年09月03日
花
何かが足りない。いつも人間は、どこかでそういう不満がある。
もし、人間が「花」であるならば、
何かが足りないとは思わないだろう。
もし、人間が「花」であるならば、
争うことはないだろう。
もし、人間が「花」であるならば、
明日世界が終わろうと
咲くことをやめたりはしないだろう。
もし、あなたが「花」であるならば、
生き方を迷ったりはしないだろう。
神様の島と呼ばれる島で賢者は静かにそう語った。
タグ :花
2007年08月20日
海の時間

今日の昼、晴天だった空に突如雨雲が現れ土砂降りと雷が響いていた。
しかし、30分ほどで晴天に戻った。
その後、個展会場へと向かう途中荒れ狂ったおっちゃんが道端で何か叫んでいた。
どうしたのかと見ていると次の瞬間ニヤニヤと笑い始めた。
笑い始めたかと思うと今度は沈黙し、座り込んでいた。
何だかおかしくなってきたなぁと痛感する。
表面化しないまでも、社会で暮らす人間の心の変動が激しくなっているような気がする。
地上には、海の中での静寂が必要だ。
2007年08月19日
「眼差し」と「沈黙」

個展をやっているとさまざまな人と出会う。
小学生から80才のおばぁまでと幅も広い。
そんな中で島の案内や物語などを話すのだが、写真を眺める人に一つの共通点が
あるように思う。それは眼差しと沈黙と悲しみである。
何気なく話しているときから、写真を眺めたときに眼差しは一変する。その眼差しには
何か大切なものに想いを馳せるときの優しさに満ちているかのように思う。
そして、それがその後に沈黙を生むのだろう。
自然というものへの想いなのか、子供の頃の記憶なのか、大切な人との思い出なの
か、それぞれに抱く想いを感じるのだ。
だが、その後に悲しみを内包したような表情が現れる。
それは日々の忙しい暮らしの中で「忘れていたもの」への想いではなかったか。
そんな気がしてならないのだ。
私はそんな人達の眼差しにかけがえのない優しさを感じるのだ。
それは失いたくないものを持っている人の眼差しだからなのかもしれない。
そして、島々で出会った賢者の眼差しもそうであった。
2007年08月18日
島案内(水納島)

沖縄本島の中部にある渡久地港から15分、水納島という島がある。
この島は三日月の形をし、水鳥が多く集まる島である。
歩いて回ることができる規模の島で決して大きくはないのだが、ここには不思議な
ガジュマルの樹がある。佇まいもさることながら、このガジュマルには数百という
蝶がツリーのように舞っているのだ。
花と蝶ではなく、ガジュマルと蝶という組み合わせに最初は違和感を覚えたが、
しばらく見ているとその光景は不思議と心を落ち着かせていく。
それはガジュマルと蝶という言葉にしてしまうと別々のものなのだが、よく見ると
蝶がガジュマルの葉のようにも思えてくるのだ。つまりそこには「繋がり」のような
ものを感じ、お互いがお互いの一部になっている。
人間と自然という隔てられた世界ではなく、一つの世界がそこにはあった。
何もかもが個別化された世界の中で、そのことは私にほんの一瞬
世界のあり方を見せてくれたように感じたのだ。

2007年08月17日
ありのままに咲く花

個展をやっている最中は都市にいることが多い。
今は福岡で個展をやっているのだが島にはない文明の宝庫なのでそれはそれで楽しめている。
だが最近ふとした瞬間、ある風景を思い出すことがある。
それは西の果てにある与那国島に咲いていた何気ない空と海に包まれた「ありきたりな花」の姿だ。
なぜあの景色がよぎるのだろうか?
よく考えてみると最近花を見ていない。
都市というところで花を見るのは至難の技のように思う。
花屋やガーデニングや花瓶に入った花があるじゃないかと言われそうだが、私にとっての花とは
「ありのままに咲いている花」なのである。花屋にあるブランド化された花や誰かが植えたり
育てた花ではなく、いつの間にかそこに咲き、いつの間にか散っていく花のことなのだ。
都市では土地や建物などさまざまなものが社会というものに管理されているからなかなか
そういう花に出会えない。そう思いながら都市での生活を思い返してみると、バスや電車の時間、
食事をする時間、歩く道、動物園などさまざまなところで管理されていることに気づく。
無意識のうちに管理されていたことがどこかで不自由さを感じ、あのありのままに咲く花を
思い起こさせたのかもしれない。




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